土佐に伝承した無外流は、江戸時代から幕末にかけて、森下権平から手島早太、土方三丞へと伝承された。
平尾道雄氏が「土佐史談」に寄稿された記事を紹介。
本文
無外流剣法を土佐に傳へたのは、流祖都治月旦、及びその子孫であることは勿論ながら、月旦の高弟森下権平の功労を没却するここは出来ない。権平、名は辰直、森下勘之丞辰治の二男で、初めは鎌田氏と称した。
先祖築田左馬之丞は、長曾我部元親公の家来で武勇の名を知られた者である。明輩に潜上のものがあつて、痛く親公の忌諱に触れ、公はこを手討ちにしようとしたが、容易にその機會がない。即ち左馬之丞を召して云はるゝには、「我等近く種崎に参る程に、舟の彼地に着くを待たで、討取り候へ」とて、正宗(一に正家に作る)の刀を授けた。さて其日になつて、長濱から種崎へ渡る舟の中で、元親は舳に席を占め、左馬之丞は中程に坐し、當の明輩は艫(とも)に近く、掉を指して居た。彼岸に着くや着かずや、左馬之丞は矢庭に刀を抜いて、彼者へ斬りつけた。一閃刀は光つたけれども相手は更に動かない。元親公は思はず「左馬之丞仕損じたるぞ」と云ふうちに、二掉三掉さした彼者は、舟の頭が岸を衝く途端、二つになつて水中に落ちた、公
〇感斜ならず、直ちに右の刀を賜ひ「以後之を掉指と名づけよ」と仰せられたと云ふ。刀は代々家に秘蔵されたさうであるが、此の逸話など、後年創客森下権平を生んだ武藝の家筋を物語るものであらう。
森下権平は、その生年月日を認めたものは見ないが、明和四年八十二歳を以て歿したと傳へられて居るから、逆算すると貞享三年の誕生である。彼は十八歳の時先づ高知に於て小林市郎左衛門の弟子となって、心蔭流を擧んだ。寛永六年市郎左衛門歿し、其門弟山本助之丞師役に〇げらるゝに及び、権平はまた之に就いた。彼が二十四歳の時である。その精励は早くも助之丞の認むる所となり、一日権平を呼んで、「こなたは〇人にすぐれて精出され候ゆえ申す事に候。江戸などには此流儀より外に上手もあるべく、彼地へ参りて修行せられ候へ」と勧めた。権平は憚る所あって辞退すると、「いなとよ、我等なども二人と子あらば、一人は他流を致させたき存念なり。何分他流を致されても。許可は進じ申すべし」と、强ひての言葉に、権平は「いづれ浪人ものゝ儀なれば、修行はいづくまでも仕るべし。さりながら免許の儀は御辞退申上ぐ」こ答へて退いた。小林門下の永野源作は後日之を聞き、助之丞に「権平へ當流許可の儀は御見合せあつて然るべし。彼れ此流儀を仕逐候へば送へば尤もの次第ながら、改流致す上からは、免許には及ぶまじ」と忠告ずる所あり、権平も亦固く解退したので、心陰流免許の事はなかつた。心陰流は待流(又は末流)とも唱へたさうで、数年後の話であるが或人が「無外流は待流なり」と評したと聞き、権平は氣色ばんで其人を訪ひ、賓否を訊した。すると「それは誤傳と覚え申候。我等は無外流は能く死生の場の勝負合を知りたる流と申したり」との答だつたので、権平「さらばよし。若待てする流との仰せならば、我等。聊か所存あつて参りたり」ご釋然としたと云ふ。
白頭雑譚には、右に⚫︎して異説がある。権平剣技に志す所あり、一日永野源作に相談したるに、源作の言へるは、「おのれは是まで蔭流を學び、其藝の奥技をも知りたり。今江戸に都治月丹とて一家の先生あり。その發明したるを無外流と號して、いと盛なり。未だ當國に傳はらざれば、此門に入って勵むべし」とあつたので、構平⚫︎ち意を決して江戸に赴き、二三年が程修行して帰國した。源作は斜ならず打歓び、さて立合って見ると、権平は一太刀も敵するここが出来ない。源作日く「未だ御修行末熱と見えたり。今一両年江戸に行き、練達せられよ」と、権平も心得て再び東遊し、研鑽怠らず、遂に其効あつて帰國の後、太守の勧師範に抜擢せられた。源作も⚫︎る満足し、「流儀こそ違へ、極意は同⚫︎なり」とて、晩年の後も切⚫︎森下稽古場へも見物に来たと云ふ。これは彼が山本助之丞の示唆によって⚫︎流したといふ前説と、相違を見せて居るのであるが、前者は権平の直話を録した南月渓の見聞随筆や、馬詰親音の日録に見ゆる所であるから、その確實性は後者に優れたものと解せられる。さりながら、後説も亦修行道話としては捨て難い味があり、或は助之丞から他流修行を勧められた権平が、先輩なる源作に相談したものと見て、此話は併せ傳ふべきであらうか。
江戸に於て、権平は都治月丹の門に研鑽を積むこと十一年、能く無外流劒法の奥義を極めて発許を得た。修行中のこと、彼の上達振りを相弟子が激賞したことがある。すると、兄弟子の和段之進は却つて之を非難した。権平が其仔細を尋ねると、「其許の仕合口を見るに、敵を皆氣に乗せて致す故、却つてわが本心に覺えてすることなし。我が氣に乗る者とは仕合やすしと雖とも、もし相手本心を居ゑて、我が氣に乗らざらばいかにともなりがたからずや」と忠言を受けた。権平も「さりこは尤もなること」と、心中悟る所あり、仕合口を更へて更に自得する所があつたと云ふ。晩年彼が劒法工夫の歌とて、人に示したものがある。
移すとも月は思はすうつるとも 水も思はす猿澤の池
何くにも心とまらはすみかへよ なからへはまたもとの古郷
いつくにもの歌はものに差せぬ眞劒術にはこゝと思ひすゑることのないことそふあれは氣のいつきになるなり上の猿澤の池に意通ふ
「此流にては必勝と云ふことはいはぬ事なり。仁者無敵の地位てなうては必勝はないぞ。」とは彼が常に日にした所で、或人が「技の同位なる上手、立合ひたる時は勝負何れにかあらん」と問ふと、彼は「いづれにても動く方に負あり。譬へば両方の指もて物を張合ひ居るが如し。動き出る方より落ちるものなり」と答へた。己發未發の言葉は、劒道の機を説く彼の常用語であつた。
業成つて帰國の後、先づ彼の弟子となつたのは家老福岡宮内を初めその家臣上村辨二等両三子であつた。福岡宮内はかつて江戸詰となり、都治月丹を識つて其家臣を月丹門に入れて居たので、権平の技は夙に熟知して居たのである。一日客あり、宮内の稽古場を訪ひ「是非こも権平が仕口一ぱいの所を見たし」とふ。宮内曰く「それはとても叶ぬ儀なり』とて、客の不審のまゝに「権平殿が遣ひ方を見んとならば、都治喜摩多か、右平太かの打太刀なければ見られぬ事なり。辨二づれの打太刀にては、所詮辦二づれの遣ひ方を見るに過ぎ申さず」と答へたこ云ふ。
元文元年正月廿八日、時の太守豊敷公に召出されて、剣術指南役となり、三人扶持切符八石、格式御留守居組になつたのは、恐らく家老福岡宮内の推挙によるものであらう。彼がまた江戸に居た頃、岡部美濃守から都治月丹のもとへ使者があつて、磯部助之進か、森下権平のうち二百石位で召抱へたき旨を申入れた。月丹は直ちに両人を呼んで内意を問ふと、助之進は「今少し稽古仕りたく候」とて辞退し、権平は「仔細もあれば他所へは仕官仕らず」と拒絶した。月丹が理由を問ふと、権平は實兄勘之丞の手紙を差出したので、月丹が披いて見ると、「御自分之儀藝も段々と上り候由、一段と珍重存候。乍去他國へ参候儀は無用なり。御國の米穀を食候て人となり候得ば、木國へ歸り候て一飯なりとも互に可食、必ず他國へは無用なり」との意味が認められてあつた。月丹感歡大方ならず、「扨も小身なる人の、かゝる志、珍しきことかな、御國はめでたき風儀と見えたり。我等もさやうな國へ参りて肥えたし」と云つた。實兄森下勘之丞辰清(月が円)は、銀札紙漉方御用や、小者惣支配など勤めて四人扶持そこらの小禄に過ぎなかつた。兄弟の仲は人目に餘るほど睦じく、権平歸國の時は毎日の如く松ヶ鼻へ出かけて、下り舟を見るたびに「その舟に下着人ありや」と聲を掛けて居た。糖平も忘れ難い勘之丞の聲を耳にすると、懐しさに堪へず、舟から轉ぶやうに上つて、互に無事を悦んださうである。
権平は妻帯しなかつたので、同姓の御坊主鎌田宗覺の伜鐡右衛門を養ひ、之を仕込んで無外流皆傳を授け、明和三年三月十三日を以て官に請ひ、鐡右衛門に家藝を代勤させた。
老齢のため其後間もなく病蓐に臥す身となり、明和四年十二月四日を以て永眠した。臨終に際し、知人の箕浦乙三郎(貞吉)が見舞に行くと、権平は頻りに歸るやうに勧めた。乙三郎は「唯今参りたる故、今少し相詰め候べし」と云ひ、家人も其旨を述べると、権平は「兎角お出下で下されても最早役に立ち申さず。お歸りなされて親父様へ権平も元の権平にならずして死に
たりと仰せられよ」と云つた。暫らくして又「都治喜摩多は臨終に及んで端座して死にたりと承はる。其時申せしは、外に残すことはなけれど、中田勘蔵を御國者になされ下さるべくや、これのみ氣に懸り候と申した由承はる。最早出者などそのやうな確かな事は合點参らず」と云つた。又響らくすると急に「起せ」と云ふので、背後に衣着や布団などを重ねて起すと、権平は足を寄せかけたが、何分にも老體の上に、大病の疲労もあつて端坐すること能はず、その氣持だけで辰の刻に往生したと見聞随筆に記されて居る。最期まで自己を試練せんとする修行心の旺盛さが、此の老劒士の臨終にまで⚫︎はれて居て、人の氣持を打つものがある。行年八十二歳。
森下権平は既述の如く無妻だつたかから、歿後は養子鐡右衛門辰満が権平を襲名し、明和五年四月四日を以て相続、師匠役も其儘仰付けられた。養父から皆傳を受けて居たが、同七年二月十一日、百箇日の暇を請ひ、出府、師家都治文五郎(資賢後文左衛門)の門に修練を重ね、歸國後同八年九月十五日には太守豊雍公の劒術御相手を申付けられた。同年十一月廿六日病死、その後は権平辰敬、彦作辰と相継ぎ、彦作は天保四年十月九日江戸で⚫︎心自殺したので、跡目が断絶したが、其子爲衞辱愼劒道執心のため天保十年正月九日三人扶持新御扈從に召出されて、家名を復興した。
森下家の弟子には、初代権平に安藝左近進、坂井壽助、馬淵團蔵、今多喜平太、角田十左衛門、森下又進等の逸足があつた。
森下又進は権平實兄勘之丞辰清の子で、後勘之丞辰明と名乗り、●暦十年には劒術師匠役となり。尋いで又太守豊雍公の劒術御相手をも仰付けられたものである。角田十左衛門は後庄兵衛政春と●し、豊敷公時代●歴十四年正月九日、三人扶持御小姓組末子として藝家に取立てられ、豊雍公時代天明二年正月九日切符十石を加増せられて、劒術師匠役となつた。寛政八年九月五病死の後、養子武次正秋(服部半五郎正清二男)が継ぎ、賛左衛門正之まで藝家の名誉を保持して、維新に及んで居る
都治・森下両氏の努力を以て劒法無外流は其後次第に土佐上下に普及し、文化文政の頃にはその師家として一家を爲した者に手島早太弦雄、野本多市(名不詳)、土方三丞久治等があつた。手島早太は都治文左衛門資賢に学び、豊策公時代寛政八年正月九日、三人扶持格式馬廻末子を以て藝家に召出され、文化九年正月九日には馬廻に昇格して加増を受け、剣術師匠役に任じ、時の太守豊資公のお相手を動めた。知才のない人物で、楠目成徳の手抄にも、彼を評して「無外流劒術の上手にて、師匠役也。才智有之、門弟も多く、世上人望有て家中若者等の葛藤と云えば、必ず手島先生の仲裁にて、双方を能く取鎮め、先生々と仰がれける」と云つて居る。然るに文政四年五月、その養育人手島順吾が、高岡郡半山郷へ出稽古の途上に於て、上分村郷土市川龍右衛門の家来萬平から雑言を浴びせられたが、無届旅行のために後日の紛糾を虞れて一應歸宅した。早太は直ちに高本萬平を斬つて、士の體面を正すべく順吾を上分村に遣はしたが、市川龍右衛門の陳謝によつて前後を思慮する所あり、事件を穏便に解決しようとした。當初から早太の相談を受けて居た儒者の宮地莊蔵(仲枝)は、強硬にその態度軟化を非難し、結局順吾は萬平を斬つて歸宅したけれども、莊蔵は早太の優柔不断を快しとせず、遂に両者の疎遠を●し、宮地百馬(貞枝)等●人の如きは早太に面會の上、兼て授かつて居た無外流傅書を突返して、その門人たるを辞するに至り、世上の風評芳しからず、遂に同年七月九日當の手島順吾は大阪へ追放せられ、早太は格禄召放され、御城下四箇村禁足を命ぜられた。
其後文政十一年十一月廿五日恩赦に逢ひ、翌年七月九日五人扶持御馬廻末子に復し、同十三年閏三月廿七日には再び劒術師匠役を命ぜられて、斯道に精●し、天保十一年八月十三日病死した。市平静雄その後を継ぎ、嘉永三年太守豊信公に傳書を献じて、白銀七枚、肴一折を賜はつた。惣領に彦次敏政がある。
土方三丞久治は、初め治三郎と称した。先祖半三郎久則は遠州の人、一豊公に二百石を以て仕へたが後に浪人し、其子伊兵衛の時、正保二年野取領知三十石を以て百人並郷土に召出された。三丞はそれから第六代目で、剣法のみならず槍・砲・馬の諸藝に通じ、安永二年の春、百五十日の暇を請い、江戸に出て都治文左衛門資賢(初め文五郎と称す)に学んで後、天明八年正月九日、三人扶持留守居組に召出され、無外流師家となつたものである。文化五年三月二日、享年七十三を以て病死し、嫡子半三郎久利(前名鎌五郎)が相続した。宮地氏小録に、仲枝の撰文に成る墓表の記がある
土方三丞久治墓表記
嗣子半三郎久利需に依て書之
久治、父は久昭、母は祖父久道か女にして養子久昭に配せし地。寛文元年丙辰七月十日、香美郡深淵村に生る。三年戊午、兄久之世を早ふし子無か故に、久治家をつき、閏十二月命せられて郷士の職をうく。安永二年癸巳春春、江戸に行き辻資賢に隨ひ劒術を学ひ、其年家に歸る。五年丙申四月十六日、邦君其武藝を勉て怠らさる事を聞召し、二人扶持を下し玉ふ。天明八年戊申正月九日、元の扶持を除て新に三人扶持を賜ひ、忝くも諸士の列に加へ玉ふ。又寛政十年戊午正月九日、切府十石を下し給ひぬ。其藝剣術を本とし。槍術・火砲・要馬の術を●学ひ、老に至り●●に、子弟を導くこと又●時なし。武藝を勉るを以褒賞を蒙り、物を賜る事世を終るまて凡八度。文化四年丁卯十二月病にふし、五年戊辰三月二日寝に終る。享年七十三。嗚呼命哉。子久利家をつぎ業を傳ふ。
文化六己已年
半三郎久利も父の名を辱しめず、文政九年正月九日師匠役を拝命し、天保十二年十一月十九日病死、其子逸右衛門久遠は安政元年三月廿二日病死し、其次は鏡五郎久貴が継いだ。その惣領が常猪久勝である。半三郎久利は原伴九郎に就いて高木流槍術をも傳へたので、鎌五郎久貴は致道館に於ては槍術導役をも勤めたことがある。久利の二子藤吉利幸も亦劒に達し、安政五年二月廿二日、三人扶持格式留守居組末子を以て藝家に召出されて居る。
















