無外流は流祖辻月丹が無外流の剣法は禅理をもって教導すると残されており、歴代の無外流継承者は参禅し禅学を学んだ。禅学了知の上でなければ免許の「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったとも言われている。無外流の中興の祖である中川士龍先生も歴代の継承者同様、妙心寺の元官長でもあった愚渓老師に師事し、六甲山の麓にある臨済宗妙心寺派の名刹 祥龍寺に参禅していた。愚渓老師は無外流10代目宗家の高橋赳太郎先生とも親交があった。
無外流と愚渓老師のご縁
昭和13年5月15日に無外流兵法流祖の慰霊大法要を凌霜剣友会が主催となり、愚渓老師を導師として祥龍寺で営まれた。その時の香語が月丹の像の左側にある。
威風凛烈露堂々 大用大機絶商量 脱却漂翁秘曲去 即今宝嶺放毫光
また、昭和14年夏、中川先生が愚渓老師の元を訪れ、赤樫の警策を示し、老師に一筆を乞うたところ、老師は「珍重大元三尺剣春風影裏切虚空」と書かれた。これは、北条時宗の禅学の師となった仏光国師がかつて、支那雁山の能仁寺にいた時、元の兵に捕えられ斬首されんとした時「乾坤無地卓孤笻 且喜人空法亦空 珍重大元三尺剣 電光影裏斬春風」と一括した。元の兵は国師の態度に刀を降ろし得なかったと言う。この後の二句を書いたものである。
中川先生は、その後二十年の歳月を経て、「春風影裏切虚空」は名人芸であることがやっと分かるようになったと述懐している。
祥龍寺
六甲山の麓の住宅地の一角に建つ。冬は六甲おろしが吹き付ける。大きな門をくぐると正面に立派な本堂の大玄関が見える。
左右には手入れの行き届いた美しい枯山水が広がる。
本堂
本堂の中央には、愚渓老師の書が掲げられている。回りの杉戸絵は臨済宗の教えに関連した絵が多く描かれており、禅学を学びながら絵を見ると理解が深められやすいのではないだろうか。
坐禅会は本堂で行われており、中川士龍先生もご本尊の前で坐禅を行じていたものと思われる。中川士龍先生がここで何を学ばれ、何を考えたのかを考えるだけでも無外流修行者としては感慨深い。
歴史
広国山祥龍寺は、法道仙人(649年頃)の開基と言われている。廃寺となった時代もあり、中国より隠元禅師来朝したときに、黄檗宗に改宗し毛利吉広公の帰依を得て再び禅林として盛えた時代もあったが、火災に合い再び廃寺となる。
昭和2年に、愚渓老師が祥龍寺の遺蹟を発見し、多くの喜捨を受け中興開山として再興した。
碧層軒五葉愚渓老師(へきそうけんごようぐけいろうし)
安政6年8月14日に大分県日田に生まれ、幼くして仏門に入られた。
明治40年10月に神戸にある祥福寺の住職となり、大正13年5月大本山に入寺開堂をなして、妙心寺派第551世管長に就任した。後に偶々摩耶山下に、昔の広国山祥龍寺の遺蹟を発見し、多くの寄進によって祥龍寺を再興することができた。寄進者には、鈴木商店の鈴木よね女史をはじめ、当時の神戸市長小寺謙吉、兼松商店、藤井忠兵衛、米澤吉次郎等々神戸の政財界から喜捨を得られていることは、ひとえに愚渓老師の人徳の素晴らしさが分かる。
戦後の動乱により、愚渓老師の資料などはほとんど残っていないが、書をされていたため、多くの作品が残っている。
現在のご住職
現在は、五世悠山靖玄が住職を勤められており、長年修業を積まれ非常に温和なお方である。
祥龍寺では、今も座禅会を定期的に行なっており、無外流の修業者はもちろん、座禅などに興味のある方は、ぜひご住職に接してみてほしい。必ず学べるものがあるはずと思う。
祥龍寺
住所 | 兵庫県神戸市灘区篠原北町3丁目6番2号 |
WEB | オフィシャルサイト |
- 参考:『無外流居合兵道解説』中川士龍 著
塩崎 雅友
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