『天狗芸術論・猫の妙術』は江戸時代の佚斎樗山による剣術書で、武芸・心術の学び方を儒教的観点から説いています。
無外流の中興の祖 中川士龍先生の著書『無外流居合兵道解説』でも取り上げられており、無外流の修行者はもちろん、あらゆる武術の修行者に向けて必読書として推薦したい書籍ですが、初心の頃からこういった本を読んでしまうと頭でっかちにもなってしまうため、数年稽古をしてある程度、技が身についてから読むことをお勧めします。また、上達するにつれ理解度が深まるため毎年読まれることを推奨します。
武術を学ぶ目的は心身鍛錬である
武術を稽古する目的は古来より心身鍛錬だと言われます。しかし、心は形がなく見えないものであり直接鍛錬することはできません。天狗芸術論には、心と気と体の関係について詳しく書かれており、この関係について正しく理解しておかないと、稽古が単なる運動となるか、心身を鍛えることができるか結果が大きく異なります。
心から気を発し、気が体を運用する
天狗芸術論には、下記のように「体は気に従い、気は心に従う」という内容が何度も出てきます。
技は気によって修練するが、気は心の働きに応じるため、心の持ち方が大事である。
そして、気は生き生きと活動して停滞することなく、剛健で屈しないことが大事である。
心にとらわれるものがなければ、気も和んで平穏である。気が和んで平穏なときは、活き活きと自由に働き、あえて強くしなくとも本来の姿で強い。心は明鏡止水の如しである。
明鏡止水とは、邪念のない落ち着いた静かな心境ですが、無外流に伝わる百足伝にも「曇りなき 心の月の 晴やらば なす業々も 清くこそあれ」とあります。心がざわついていれば気が荒れたり滞ってしまい思い通りに体を使うことができなくなります。
この心と気と体の関係や作用を感じながら稽古をすることで、気を練り、心を鍛える稽古ができます。
心とは
本書には、心について以下のように書かれています。
心は「性」と「情」だけであり、「性」とは天から与えられた本質で色も形もない。「情」の動きによって、正邪や善悪の違いが生じる。
孟子の性善説の教えでは、人間の本性は生まれつき善であるとする考え方があるが、邪悪な動きになるのは欲が根本的な原因である。
稽古においては、相手を負かせてやろう、驚かせてやろうといった気持ちがすでに欲であり、相手が師匠や先輩だったとしたら失礼でしかありません。
心というのは、見えるものではありませんが、一日の中でも知らずしらずのうちに勝手に動いているものです。
一日の行動を振り返ると、昼食は何を食べる?あれが欲しい、酒を飲みたいなど、1日のうち何度も欲によって心が動き判断して体が動いているはずです。寝る前に1日を振り返り、どういった瞬間に心が動いているのかを思い出して反省するのも面白いですね。
四端の情
孟子の「性善説」における概念で、人が生まれながらに持つ4つの道徳的な感情があり、それぞれ「仁」「義」「礼」「智」という徳の芽生であると考えられている。
惻隠の心(仁の端緒)
他人の不幸や苦しみを見て、自然に心が痛む、憐れむ気持ち。
羞悪の心(義の端緒)
自分の悪行や他人の悪行を恥じる心のこと。
辞譲の心(礼の端緒)
他人を尊重し、譲り合う気持ちのこと。具体的に表す例としては、順番を譲り合う、席を譲り合う、言葉遣いを丁寧にする、 相手の立場や気持ちを尊重するなど。社会生活を円滑に進める上で非常に重要な役割を果たします。この心を大切に育むことで、より良い人間関係を築き、より良い社会を築くことができると説いている。
是非の心(智の端緒)
物事の善悪を正しく判断する心のことです。これは、孟子の性善説における「四端」の一つであり、仁・義・礼・智という四つの徳の根源となる心とされています。具体的には、何が正しいか、何が間違っているかを識別する能力を指す。
気とは
陰陽を学ぶとよく分かりますが、森羅万象あらゆる物事は陰陽の気から成り立っています。
本書には、気について以下のように書かれています。
技の修練によって名人になったとしても、その名人技を行わせるものは、すべて気なのである。天地の雄大さも、太陽や月の明るさも、四季が移り変わり、寒暑を繰り返してあらゆる生物の生殺を行うのも、みな陰陽の変化にすぎない。
気は生命の源なのであり、この気が体を離れるときに死ぬ。生死の境目はこの気の変化だけなのである。
生死の道理は理解しやすいものではあるが、ついつい、この人生にもうしばらくとの名残りが残る。これを迷心(心の迷い)という。この迷心がやたら動きだすために、精神的に苦しんで常に大負けすることが知られていない。
日常やり取りする言葉も心から発せられる気の形であるが、誰でも、声色などから相手の心の状態を自然と感じていたりします。心が動いて気が動いた結果、声や体の動き、表情などに心が表れます。
心身を鍛えるには段階的に学ぶ
心や気は見えるものではないので、武術を通して学ぶとしても、先人が考えた形を拠り所として繰り返し稽古をするしかありません。形を繰り返し稽古しなければ、その先人が到達した足跡のない道を悟ることはできません。
原理は上から説きおろし、修行は下から探求していくのが世の常である。
人は、何事であれ一足飛びに身につくものではありません。
とある流派では、単純な動きが極意であるという話を聞いたことがあります。動きだけであれば素人でもできますが、極意として身につけるには、段階的な修行を経ないと単純に見える動きであっても身につくことはありません。
本書には、物事には順序があると下記のように明確に記されています。
陰陽の考え方としては、形のないものは形のあるものの主である。だから気によって技を修練し、心によって気を修練するのが物の順序である。
まずは基本や形の手順や注意点などの形を学び身につけたうえで、気を意識した稽古を行い、さらに心との連動を意識した稽古を行うなど、段階的に学ぶべきだと思います。
初心のうちは、握り方や動きの順序などを覚えるだけで精一杯ですが、この段階で気迫などは不要です。指導を受ける注意点などをしっかり覚えて身につけるべきです。ただし、暑いから、寒いから稽古に行かないといった反応をする場合もあると思います。まずは暑くても寒くても心は負けず稽古に参加するよう心がけましょう。体がつらいから稽古しないといった行動は、心が気を発して体を動かすのではなく、体に心を支配されていると言っても過言ではありません。
初段くらいになると、武具の扱い方には慣れてきます。
素振りなど、意識しなくても動けるようになったら、気を出して稽古することで動きに気迫がこもり鋭くなります。
さらに上段者になると形の動きにおいても気迫のこもった稽古ができるようになるでしょう。
本書には以下のように書かれています。
初めの内はまず剛健闊達の気を養って、小ざかしい知恵を捨て、敵を脚下に敷き、鉄壁といえども打ち砕くという、益荒男の気性でなければ、熟達して無心自然の究極の原理に達することはできない。
そして、動き方を意識しなくても気迫のこもった稽古ができるようになったら、心の鍛錬の段階に入ります。
相手の太刀が当たったら痛い、そういった恐怖心などから体が逃げないよう立ち向かう心を鍛えます。
心の持ち方
敵と相対するとき、生死を忘れ、敵を忘れ、我を忘れて、心が動ぜず、意思もはたらかせず、無心に本来の機能に任せているときは、身の変化は自在であり、技の応用に何ら支障がない。
剣術は生死を分かつ闘いの場に用いる術である。だから生を捨て死ぬ気になって闘うことは易しいが、生死を二つに分けて意識するようなことなく闘うことは難しい。生死を二つの別々のものと意識してしまうようなことのない者が自在のはたらきをするのであろう。
心が感じるままに動いて心に本来具わった自然の法則にしたがう時は、心の明快さが終始保たれ、気が妄動することはない。それは、たとえば舟が流れに従って川を下るようなものである。
無外流の教えに、「吹けば行く 吹かねば行かぬ 浮き雲の 風に任する 身こそやすけれ」とある。まったく同じことを言っているものと思います。
気の修練
気を修練するには、気の濁りを除去するだけのことである。陰陽の気は生き生きと様々に変化しており、天地万物の大本である。
学術は人に本来具わった知性の明らかさをもって気の濁りを除去することを目的とする。気の濁りを除去したときには気が生き生きとはたらき、余分な物の付着しない心の本体だけが現れる。迷っていた心が直ちに本来の心となる。
稽古の前に黙想をして気を沈めてから稽古にはいるのもいいですが、常に気が滞らないような意識が大事ですね。
気が清らかな場合は活き活きとしてその働きは軽やかであり、気が濁っている場合は滞ってその働きは重苦しい。動作は気に従うものである。だから剣術では気の修行をすることが肝要である。気が活き活きしている時は技の対応が軽くて速く、気が濁るときは技の対応が重くて遅い。
気は剛健であることが貴ばれるが、ひたすら剛ばかりを働かせて和のない場合は、くじけてしまってその役割が果たせない。気が片寄る場合は他の部分が虚になって作用しない。気の働きは和を貴ぶとは言いながら、その中に剛健という主が存在しない限り、流されて弱くなる。
これが段階的な稽古をしないと、心の鍛錬ができない理由だと考えています。
まずは、形ができるようになったら、剛の気を養うべく、気迫を持った稽古が大事となり、十分に気迫を出せるようになったら心の鍛錬を行う。心の鍛錬にも段階があります。
陰陽
いろいろと言い方を変えてはいますが、結局のところ、心と体、相手と自分、すべては表裏一体の関係である陰陽であることを言いたいのではないかと感じます。目で見て判断して動くのでは、相手に動かされており陰陽の関係ではありません。
様相は観念の影であり、必ず形に現れるものである。しかし、観念の様相が形に現れてなければ、向かい合って敵対する者はいない。これを敵もなく我もなしという。我があれば敵もあるのである。我がないために向かって来る者の善悪邪正からほんの些細な一念に至るまで、鏡に映るように見えるのである。自分でこれを映し出すのではなく、相手が映し出されてくるだけである。それは、有徳の人には邪(よこしま)な心で立ち向かうことができないのと同じである。人間に本来具わった力の不思議さである。もし自分でこれを映し出そうとすれば、それは雑念である。この雑念が自分の心の明快さを塞ぐために、気が滞って応用動作が自由でなくなるのである。
学術においても武芸心術においても、ただこの一芸にとらわれる私心さえ捨て去れば、天下に自分を動かすような者はいなくなり、何の障害もなく自由自在に動けるようになるのである。
この一文で、無敵という概念が変わる方が多いのではないでしょうか。
物騒な稽古をしなければいいのではないかという考えもありますが、恐怖でも動かない心を身に着ける方法が他にあればいいのですが、武術の稽古が最も近いのではないでしょうか。
水月
無心でしかも本来の理に適った対応を、月が水に映る場合の相互関係に譬え(たとえ)たものである。広沢の池で上皇がお詠みになられた次のような和歌がある。
「うつるとも月もおもはずうつすとも水もおもはぬ広沢の池」
心の本体が動揺しないことを言うだけのことである。心の本体が動揺しない時は状況に適応した働きが明らかである。日々人のなすべき事柄もまた同じである。充分に打ち込んで相手を奈落の底まで打ち落としたとしても、自分は元の自分で打ち込む前と少しも変わらない。それだからこそ前後左右、何の支障もなく自在に動けるのである。
無外流の百足伝にも「うつるとも月も思わずうつすとも 水も思わぬ猿澤の池」とあるが、土佐に無外流を伝えた森下権平が晩年彼に劒法工夫の歌として、”いつき”について人に示していたと言います。
先
”後の先” ”先の先”などといった用語がありますが、下記の教えに基づいて”先”を考えると面白いですね。
諸流に先という事がある。これもまた初心者の鋭気を助長し、惰気に鞭打つための言薬である。実は、心の本体が動揺しない状態で自分を失わず、浩然の気が身体に充満するような時は、いつも我が方に先があるのである。それは他人より先に打ち込もうという心遣いをすることではない。
結局のところ剣術では、生気を養い、死気を除去することが肝要である。懸かる中の待ち、待つ中の懸りというのも、みな本来の法則の応用である。
無外流の百足伝に「兵法の先は早きと心得て 勝を急って危うかりけり」とありますが、どちらにしても先手必勝ということはなさそうです。
歩き方
下記のように具体的な指導内容もあります。
よい歩行者は腰から上は動くことがなく、ただ足だけを動かして歩行するので、身体は静かで内臓をゆすることもなく、身体は疲れないものである。
なんば歩きなどいろいろと絵巻物などから歩き方を開発されている方もいるが、江戸時代にも歩き方が変わっていたことがうかがえます。昔からの動き方は体をひねらないようにして手を動かさず歩いていたことがわかります。
さいごに
天狗とは慢心した状態のことを言いますが、著者は天狗を持ち出すことで、下記のような戒めを伝えたかったのでしょうか。
わたくしもこの一文に、大きく反省させられました。
天狗界というのは、自分の小ざかしい知恵に慢心して他人を侮り、他人の騒動を喜び、その喜びを是非や得失を区分する基準としてしまって、無事を楽しむということを知らない。
自分が欲することを絶対視して、自分を反省することもない。ただ自分に従う者を是とし、自分に従わない者を非とする。世間一般の是非の判断を自分の我執のしがらみに塞き(せき)止めてしまって、あれを憎みこれを愛し、あるいは怒りあるいは苦しんで、片時も心が静かであることがない。このような精神状態を、仏教では、一日に三度熱湯を飲んで全身から火焰(かえん)を発生させると表現する。この煩熱(はんねつ)の苦しみが原因でいろいろと転動し、悪事を働いて他人に害を与えるのである。
学術も剣術も、どちらもただ自分を知ることを専らの務めとする。自分を知ることができた時には、心の内が明らかになってよく言行を慎むことができる。だから、敵になる者もいなくなる。たとえ知恵が足りなくて誤りがあったとしても、それは罪ではなく、結果は成り行きに任せればよい。
『天狗芸術論』には気の感じ方など、もっと具体的な方法なども書かれており大変参考になります。皆さんんも、これを読んで、心を鍛えられる稽古を実現してまいりましょう。
文責:塩崎雅友








