武術では「間が大切」と言われます。
しかし間とは何でしょうか。
多くの人は距離やタイミングを思い浮かべます。
けれども長年稽古を続ける中で、私は間とは単なる距離や時間ではなく、「自分と他との関係そのもの」ではないかと感じるようになりました。
間とは
間という漢字
古い字形を見ると、「門の隙間から太陽の光が見える様子」を表しているとされています。
この二つは、単なる「距離」だけではなく、二つのモノの間に生まれる関係性という意味が見えてきます。
間に関する単語
「間」という字の入った単語は多く、関係や空間を表現している。
- 間合
- 間柄
- 人間
- 世間
- 床の間
- 茶の間
日本人が言う「間がいい」「間が悪い」は、単にタイミングが良い悪いではなく、その場との関係が調和しているかどうかを表しているのだと思います。
武術の「間」も、同じ世界観の中にあるように感じます。
武術における間
単なる距離ではない
見た目の間は、「距離」と「時間」の間になりますが、相手との関係によって間は大きく変わります。
相手との距離が2mだったとしても、
- 相手が攻める気でいる
- 相手が油断している
- 相手が下がろうとしている
では、同じ2mでも全く違う「間」になります。
形から学ぶ間
なぜ先人は形を残したのでしょうか。
単なる技術伝達なら、技だけ教えればいいと思います。
しかし実際には形があります。
形の中には、
- 相手との間
- 武具との間
- 空間の間
- 時間の間
があります。
だから形を繰り返すことで、単に技術ではなく、間の感覚を身体で学びます。
間を制す
形を通して相手の動き(円)に自分の動き(円)を合わせることで調和することを学んでいます。
合わせることもできますし、間を盗むといった方法で相手の間を崩すこともあります。
いずれにせよ、間をコントロールすることで相手を制することを学びます。
間は人間関係そのもの
相手によって間が変わる
人と人の関係は武具を持った相手との間だけでなく、
- 師弟の間
- 夫婦の間
- 親子の間
- 友人の間
- 社会との間
にも存在しています
人間関係で起きる問題
人間関係で起きる多くの問題は、相手そのものではなく、相手との間が崩れた状態であると言えます。
例えば
- 言うべきことを言わない
- 言わなくてよいことを言う
- 近づきすぎる
- 離れすぎる
これらはすべて「間」の問題とも言えます。
武術で相手に近づきすぎれば打たれますし、離れすぎれば何もできません。
人間関係も同じで、適切な間を保つことが調和につながるように思います。
間とは自分と他との調和である
間とは、時空や関係であるが、「空間と自分」「人と自分」「物と自分」「事と自分」というように,あらゆるシーンで間を感じ取り失敗をしたり調和をしている。
これによって自己形成をしているのだと思う。
間は調和であるが、迎合ではない
調和というと、相手に合わせること、従うこと、と思われがちです。
しかし武術では違います。
例えば相手が斬りかかってきても、そのまま従えば斬られます。
だから、相手を否定せず、しかし流されず、最も自然な関係を作る。
これが調和です。
川の流れに逆らわず、しかし流されもしない船のようなものです。
物との間
初心者は刀を持ちます。
上達すると刀を操作します。
さらに進むと、刀を振る感覚が薄れ、身体と刀が一体になります。
つまり、「自分」と「武具」の間が消えていく。
道歌に「体と太刀と一致になりてまん丸に、心も丸きこれぞ一円」とありますが、物との調和を表しているように思えます。
間との調和は自己形成になる
人生は自分というものを作ることではなく、自分と世界との関係を整え続けることなのではないかと思います。
なぜなら人は、一人では存在できません。
- 空気との関係。
- 食べ物との関係。
- 家族との関係。
- 師との関係。
- 仲間との関係。
- 自然との関係。
それら全ての間の中に存在しています。
だから本来の修行とは、強くなることでも、偉くなることでもなく、「間を整える人になること」なのかもしれません。
そう考えると、流派の教えや形は「自分と世界の関係を整えるための知恵」と言えるのではないでしょうか。
形は先人との対話である
形とは、「自分を映す鏡」であり、「先人と対話する先生」です。
形が教えている間が分かると、形が教科書から先生に変わります。
流祖や歴代宗家と直接会うことはできません。
しかし形を通してなら、その人たちが何を見て何を伝えようとしているのかを探ることができる。
これを「時間を超えた対話」だと思っています。
形は単なる動作の記録ではありません。
もし動作だけなら動画で十分です。
しかし動画では継承できないものがあります。
それが、
- 間
- 機
- 気配
- 心の働き
などです。
形は、それらを後世へ運ぶための器です。
形は動作の記録ではなく、先人が後世へ宛てた手紙のようなもの。
その手紙を読む方法が稽古であり、何十年も読み続けることで、若い頃には見えなかった一文が見えてきます。
そして、その手紙を自分なりに解釈して終わるのではなく、傷つけずに次代へ渡していくこと。
それが本当の意味での継承なのだと感じます。
自分と自分の間
さらには、自分の中にも二つの要素があり、その間があると感じます。
生まれ持った素直な自分と、生活の中でできた概念で形成された自分の間があると思います。
例えば子供は、
- 勝ちたいから勝つ
- 泣きたいから泣く
- 嬉しいから笑う
非常に自然です。
ところが成長するにつれ、
- こうあるべき
- こう見られたい
- 失敗してはいけない
- 強くなければならない
といった概念が積み重なります。
もちろん社会生活には必要です。
しかし気づかないうちに、概念としての自分が主人になり、素直な自分が奥へ押し込められることがあります。
武術でも似たことがあります。初心者の頃は、
ぎこちなくても自然に動こうとします。
しかし知識が増えると、
- 肩を下げなければ
- 腰を切らなければ
- 手をこう使わなければ
と頭で作った動きになります。
結果として、かえって動けなくなる。
多くの師範が「力を抜け」「考えすぎるな」と仰るのは、技術を捨てろという意味ではなく、後から作った概念に支配されるな、ということなのかもしれません。
二つの自分の対立ではなく、二つの自分の対話の場だと思います。
素直な自分だけでは社会は生きられない。概念の自分だけでは本質を見失う。
どちらかを消すのではなく、両者の調和が必要になります。
武術とは、間を学ぶことである
武術とは、人を倒す技術ではなく、間を学ぶための智慧なのかもしれません。
- 人との間
- 物との間
- 自然との間
- そして自分自身との間
形はそのための学びの器であり、継承とはその真理を人から人へ伝えていく営みです。
劔和會は、武術を通じて人と世界との調和を学び、その智慧を次代へ継承してまいります。

















