
語釈
一つより百まで
一から百まで。あらゆる技、あらゆる教えを、順を追って学び尽くすことの比喩。「百」の数は、百足伝そのものへの自己言及とも読める。
数へ学びては
数え、学んでいくと。
もとの初心(しょしん)
修行を始めたばかりの、未熟で恥ずかしさを伴う状態。世阿弥が『花鏡』で説いた「初心」も、単なる純粋無垢な心ではなく、この「初めての物事にぶつかる未熟さ」を指す。
なりにけるかな
なってしまったのだなあ、という詠嘆。「けり」は気づき・詠嘆を表す助動詞。
直訳
一から百まで数え学んでいくと、元の初心へと、なってしまったのだなあ。
現代語訳
一から百まで、あらゆる教えを数え、学び尽くしていくと、不思議なことに、最初の何も知らなかった初心へと、立ち返っていくのです。
解説
この最終首は、四十首を通じて積み重ねてきた学びの果てに、修行者がどこに至るのかを詠んだ、百足伝全体の結びの歌です。
「一つより百まで数へ学びては」
一から百まで、あらゆる技、あらゆる教えを、順を追って学び尽くす。これは、四十首という長い旅路そのものを象徴していると言えるでしょう。そして、その果てに待っているのは、意外にも「もとの初心」。修行を始めたばかりの頃の、未熟な状態なのです。
ここで注意したいのは、「初心」という言葉の本来の意味です。能楽を大成した世阿弥は、『花鏡』において「初心忘るべからず」という言葉を残しましたが、世阿弥のいう「初心」とは、一般に理解されているような「物事を始めたばかりの、純粋で謙虚な気持ち」ではありません。それは、「初めての物事にぶつかる、未熟な状態」。失敗や恥ずかしさを伴う、拙さそのものを指す言葉です。世阿弥は、若い頃の未熟さを忘れないことだけでなく、年齢や段階に応じて、常に新たな未熟さ(初心)が現れ続けることを自覚し続けよ、と説いています。
この歌の「もとの初心」も、同じ地平で読むべきでしょう。百まで数えるほどに学びを重ねても、なお、分かっていないことがある。その未熟さ、恥ずかしさを、決して忘れてはならない。この歌が最後に伝えるのは、学び尽くした先にある静かな悟りというより、慢心を戒める、厳しい教えなのです。
これは、無外流開祖・辻月丹が遺した言葉とも、驚くほど一致します。月丹は、最初に学ぶ基本の一閃に、あらゆる修行の法則が帰結するとして、その形を「万法帰一刀」と名付けました。しかし月丹は、そこで満足せよとは言いませんでした。「万法帰一刀」に続けて「更に参ぜよ三十年」。基本に帰り着いたとしても、そこからさらに三十年、修行に参じ続けよ、と付け加えているのです。あわせて大きな円を描き、「文字の沙汰にあらず」――言葉や理屈で説明しきれるものではない、と書き添えました。基本一に帰ることは、修行の完成ではなく、むしろそこからが本当の修行の始まりだという、厳しい戒めがここにはあります。
第十四首「とにかくに本を勤めよ末々はついに治るものと知るべし」で予告した「本」とは、まさにこの「もとの初心」でした。しかし、その「本」に立ち返ることは、ゴールへの到達ではありません。むしろ、そこに立ち返るたびに、自らの未熟さを改めて突きつけられ、なお修行を続けよと促される――それが、百足伝という書物全体が、最後に示す到達点なのです。
私(塩崎関舟)の考え
初めて剣を手にしたとき、私たちは何も知らず、失敗ばかりで、恥ずかしい思いをしたこともあります。稽古を重ね、多くの技を身につけていくと、いつしか、その未熟だった頃の記憶は、遠いものになっていきます。
しかし、この歌が教えてくれるのは、四十首を学び尽くしたとしても、なお、分かっていないことがあるという厳しい事実です。百まで数えるほど学んでも、その先に待っているのは、悟りきった静けさではなく、むしろ「自分はまだ何も分かっていなかったのだ」という、新たな未熟さへの気づきなのだと思います。
無外流の開祖・辻月丹は、最初に学ぶ基本の一閃に、あらゆる修行が帰結するとして「万法帰一刀」と名付けましたが、そこで満足せよとは言いませんでした。「更に参ぜよ三十年」――基本に立ち返ってなお、そこからさらに三十年、修行を続けよと、弟子たちに言い残しています。
音階にたとえるなら、ドレミファソラシと上っていっても、また「ド」の位置に戻ってきます。しかし、それは「以前より高いド」に安住してよいという意味ではなく、むしろ「まだ最初のドすら、本当には鳴らせていなかったのではないか」と、自らを問い直すための「ド」なのだと思います。
学べば学ぶほど、自分の未熟さがかえって見えてくる。この歌が最後に伝えているのは、そうした謙虚さを、生涯忘れてはならないという、厳しくも温かい戒めなのだと感じています。
日々の生活に活かす
私たちは、経験や知識を積み重ねると、つい「もう十分に分かった」と思い込み、慢心してしまうことがあります。
しかし、本当に多くを学んだ人ほど、かえって自分の未熟さに気づき、謙虚であり続けるものなのかもしれません。何かを一巡り学び終えたときこそ、慢心に陥らず、「自分はまだ分かっていないのではないか」と、改めて初心(未熟さ)に立ち返る姿勢を持つこと。それこそが、この歌が最後に伝える、生涯忘れてはならない戒めなのだと思います。
百足伝 全釈について
他の記事
『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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