
語釈
あきらめぬれば
道理を明らかに見極め、悟ったならば。古語の「あきらむ」は「明らむ」であり、現代語の「諦める(断念する)」とは異なり、真理を明らかに究めるという意味を持つ。
もとよりも
元来、当然のこととして。
心の水(こころのみず)
心を、水面にたとえた表現。
波は立つまじ
波が立つはずがない。「まじ」は打消推量の助動詞。
直訳
兵法の道理を明らかに悟ったならば、当然のこととして、心の水面に波は立たないはずである。
現代語訳
兵法の道理を、真に明らかに見極め、悟ったならば、当然のこととして、心という水面に波が立つことはありません。
解説
この歌を読み解く上で、最も重要なのは「あきらめぬれば」という言葉の意味です。現代語の「あきらめる」は、多くの場合「諦める、断念する」という意味で使われますが、この歌における「あきらむ」は、古語本来の「明らむ」――物事の道理を明らかに見極め、悟る――という意味で用いられています。
つまりこの歌は、「兵法を投げ出せば、心は乱れなくなる」という消極的な教えではありません。むしろ逆に、「兵法の本質を真に悟った境地に至れば、心は当然のこととして波立たなくなる」という、修行の到達点そのものを詠んだ歌なのです。
「心の水に波は立つまじ」という表現は、これまで見てきた水月の意象体系と、直接つながっています。特に、第十二首「曇りなき心の月の晴やらば なす業々も清くこそあれ」とは、対をなすように読むことができます。12番が「心が澄んでいれば、技も清くなる」と説いたのに対し、この36番は、その澄んだ心の境地そのものを、「波の立たない水面」として、より直接的に描いています。心に迷いや執着があれば、波紋が立つように乱れます。しかし、兵法の本質を真に悟れば、そうした迷いそのものが生じる余地がなくなり、心は自ずと静かな水面のように、波立たなくなるのです。
私(塩崎関舟)の考え
「あきらめる」という言葉を、現代の私たちはつい「投げ出す」という意味で捉えてしまいますが、この歌が伝えているのは、その正反対の境地です。
兵法の道理を、表面的にではなく、本当の意味で明らかに見極めたとき、心は自然と波立たなくなります。それは、無理に心を落ち着けようと努力するのではなく、悟りの結果として、自ずと訪れる静けさです。
まだ道理を掴みきれていないうちは、心はどうしても揺れ動きます。しかし、稽古を重ね、少しずつ物事の本質が明らかになっていくにつれて、心の波立ちも、自然と静まっていくのを感じます。この歌は、そうした修行の深まりを、静かな水面という象徴で言い表しているのだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、物事の本質がまだよく見えていないとき、不安や迷いから、心が揺れ動いてしまいます。
しかし、時間をかけて物事の道理をしっかりと見極め、本当に理解できたとき、不思議と心は落ち着きを取り戻します。焦って心を静めようとするのではなく、まず物事の本質を明らかにしようと努めること。それこそが、揺るがない心を育てるための、確かな道筋なのではないでしょうか。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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