
語釈
器用不器用(きようぶきよう)
物事の習得における、生まれ持った巧拙、覚えの早い遅い。
異ならず(ことならず)
違いはない、変わらない。
只(ただ)
ひたすら、それだけ。
真実の勤め(しんじつのつとめ)
偽りのない、誠実な努力の積み重ね。
そあり
それ(こそ)がある、そこにこそある。
直訳
世の中の器用不器用に、違いはない。ただ、真実の勤めの中にこそ、すべてがある。
現代語訳
世の中には、器用な人と不器用な人がいますが、最終的にはその違いに、本質的な意味はありません。ただ、偽りのない誠実な努力の積み重ねの中にこそ、すべてがあるのです。
解説
この歌は、生まれ持った器用さ・不器用さという、いわば才能の差を、真っ向から相対化する、大胆な断定から始まります。
「異ならず」というのは、かなり強い言い切りです。器用な人は覚えが早く、不器用な人は覚えが遅い――そうした違いは、稽古の初期段階では、確かに目に見える形で現れるでしょう。しかし、この歌は、そうした最初の差が、最終的な到達点における違いには繋がらないと断言しています。両者を分けるのは、生まれ持った器用さではなく、「真実の勤め」――偽りのない、誠実な努力の積み重ねだけである、という構造です。
これは、第二十七首「兵法は行衛も知らず果てもなし 命限りの勤とぞ知れ」と、明確に響き合います。27番が「修行に段階や到達点という発想そのものを手放し、命の限り勤めよ」と説いたように、この35番は、器用不器用という「出発点の差」への執着を手放し、ただ真実の勤めに専念せよと説いています。
また、直前の第三十四首「屈たくの起る心の出るのは そは剣術になるとしるべし」とも、興味深い接続があります。34番が、上達の停滞期を乗り越えることの大切さを説いたのに対し、この35番は、器用不器用という差そのものが、その乗り越えの過程を通じて、次第に意味を失っていくことを示唆しているとも読めます。
私(塩崎関舟)の考え
稽古を始めたばかりの頃は、覚えの早い人、遅い人という違いが、確かに目につきます。しかし、長く稽古を続けていく中で、そうした最初の差は、次第に意味を持たなくなっていくのを、私は幾度も見てきました。
大切なのは、覚えの早さや、生まれ持った器用さではなく、どれだけ誠実に、偽りなく稽古と向き合い続けられるかということです。むしろ、不器用であるからこそ、一つひとつの動作を丁寧に、真剣に積み重ねる姿勢が身につき、結果として、より確かな力を得ていくこともあります。
器用不器用という尺度に一喜一憂するのではなく、ただ真実の勤めを積み重ねること。それこそが、この歌が伝える、揺るぎない教えなのだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、自分と他人を比べ、覚えの早さや要領の良さといった、生まれ持った能力の差を、つい気にしてしまうことがあります。
しかしこの歌は、そうした才能の差以上に、誠実に、真面目に物事に向き合い続ける姿勢こそが、最終的な結果を左右するのだと教えてくれます。器用さを羨むよりも、自分にできる、真実の努力を積み重ねていくこと。それが、遠回りのようでいて、最も確かな道なのではないでしょうか。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
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