
語釈
目には見え
目には確かに見えるけれども。
手には取れぬ
手で掴み取ることはできない。
水中の月(すいちゅうのつき)
水面に映った月の姿。実体を持たず、掬い取ろうとすれば崩れて消えてしまう。
流儀なるべし(りゅうぎなるべし)
流儀というものの本質は、まさにこのようなものであろう。
直訳
目には見えるけれども、手には取ることができない、水に映った月。それこそが、流儀というものであろう。
現代語訳
目には確かに見えているのに、手で掴み取ることはできない、水に映った月の姿。流儀というものの本質は、まさにそのようなものなのでしょう。
解説
この歌は、百足伝の随所に現れる「水月」の意象を、一つの結晶のような形で言い表しています。
水面に映る月は、確かにそこに見えていながら、手を伸ばして掬い取ろうとすれば、たちまち波紋が立ち、崩れて消えてしまいます。実体として掴むことができないにもかかわらず、確かにそこに存在している――この歌は、流儀というものの本質を、まさにこの水中の月にたとえています。
流儀は、型として目に見える形――所作、動き、口伝――として、確かに存在し、学ぶことができます。しかし、その本質、流儀が本当に伝えようとしている核心そのものは、手で掴むように所有できるものではありません。掴もうとした瞬間、それは形骸化し、本来の姿を失ってしまいます。
これは、第四首で見た、教えや言葉が悟りを得るための仮の道具に過ぎず、体得された瞬間にその役目を終えるという思想や、第十七首「我流を使ひて見れば何もなく」で見た、特別な秘技など存在しないという教えとも、深く共鳴しています。流儀の本質は、言葉や形として固定し、所有しようとした瞬間に、するりと手からこぼれ落ちてしまう、そういう性質のものなのです。
しかし、この歌は「流儀は掴めない」という結論だけで終わるものではありません。手で掴もうとすれば崩れてしまう水中の月に、それでも近づく道はあります。それは、稽古という営みを、日々、絶えず積み重ねていくことです。第四首「幾千度闇路をたどる小車の 乗得てみれば輪のあらばこそ」で見たように、理解が先に立って反復を導くのではなく、反復そのものが、後になって理解を連れてきます。水中の月もまた、一度で掴み取ろうとするのではなく、稽古という反復を通じて、少しずつ、体そのもので馴染んでいくよりほかに、近づく術はないのでしょう。これが、この歌の言う「流儀なるべし」の、実践的な意味なのだと思います。
私(塩崎関舟)の考え
流儀というものを、まるで手に取れる物のように、確実に「習得した」と言い切れる瞬間は、実はないのかもしれません。型を覚え、動きを鍛錬しても、その奥にある本質的なものは、常に、目には見えていながら、手には取れない、水中の月のような形でしか存在しないのだと思います。
だからこそ、流儀と向き合い続けるという営みには、終わりがありません。掴んだと思った瞬間、それはまた別の形で、少し先に映っている。その繰り返しこそが、修行という道のりの実感なのではないでしょうか。
日々の生活に活かす
私たちが本当に大切にしたいと願うもの――信頼や、深い人間関係、あるいは自分自身の在り方――もまた、しっかりと手に掴んで所有できるものではないのかもしれません。
目には見えていても、無理に掴もうとすればかえって崩れてしまう。そうしたものに対しては、掴み取ろうとするのではなく、ただ大切に見つめ、寄り添い続ける姿勢が求められるのではないでしょうか。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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