
語釈
雲霧(うんむ)
雲と霧。ここでは、視界を遮り、進む先を見えなくする、稽古における迷いや停滞の象徴。
転変(てんぺん)
絶えず移り変わること。仏教用語としても用いられ、無常な状態を指す。
上は
雲霧の上、すなわちそれを超えた高みにおいては。
常住すめる(じょうじゅうすめる)
常に変わらず存在し続けている。「すめる」は「澄める」とも読め、「常に澄んでいる」という含みも持つ。
月日ぞ
太陽と月。ここでは、常に変わらず在り続ける真理そのものを象徴する。
直訳
雲や霧は、稽古の中で移り変わるものである。その上には、常に変わらず澄んでいる月日がある。
現代語訳
雲や霧のように移り変わる状態は、稽古の途上で誰もが経験するものです。しかし、その雲霧の上には、常に変わることなく澄み渡っている、月や日があるのです。
解説
この歌は、稽古における一時的な迷いや停滞と、その奥にある揺るがぬ真理とを、雲霧と月日という対比で描いています。
「雲霧は稽古の中の転変そ」――稽古を続けていれば、調子の良い日もあれば、思うようにいかない日もあります。迷いが生じ、視界が霞むように、進むべき道が見えなくなることもあるでしょう。しかし、この歌は、そうした状態を「転変」――絶えず移り変わる、一時的な現象――として位置づけています。雲や霧が、時に厚く垂れ込め、時に晴れるように、稽古における不調や迷いもまた、永遠に続くものではありません。
「上は常住すめる月日ぞ」――そして、その雲霧のさらに上には、常に変わることなく在り続ける月日があります。地上から見れば雲に隠れて見えなくなる太陽や月も、雲の上では、常にそこに変わらず存在し続けています。これは、稽古の途上で経験する迷いや停滞の奥に、決して揺るがない真理が、初めからそこに在り続けていることを示しています。
これは、第八首「わけ登る麓の道は多けれど 同じ雲井の月をこそ見れ」で見た、月を真理として捉える構図と直接つながっています。8番が、道は違っても見上げる月は一つだと説いたのに対し、この26番は、その月に至るまでの過程で、雲霧という試練を通過しなければならないことを示しています。目の前の雲霧に惑わされず、その上に常にある月日を信じて歩み続けることこそが、修行者に求められる姿勢なのでしょう。
私(塩崎関舟)の考え
稽古を続けていると、なかなか思うようにいかない時期が、誰にでも訪れます。まるで山を登る途中、深い霧に包まれ、先が見えなくなるような感覚です。
しかし、そうした停滞や迷いは、いつまでも続くものではありません。雲霧はやがて晴れ、あるいは、それを突き抜けた先には、常に変わらず澄み渡った景色が広がっています。目の前の不調に一喜一憂するのではなく、その奥に、決して揺るがない真理が、常にそこに在り続けていることを信じて、歩みを止めずに進み続けること。それが、この歌が伝える教えだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、日々の暮らしの中で、思うようにいかない時期に直面することが少なくありません。仕事でも人間関係でも、まるで深い霧の中を歩いているように、先が見えなくなることがあります。
しかし、そうした状態は、永遠に続くものではありません。雲や霧は絶えず移り変わるものであり、その奥には、常に変わらない何か――自分自身の信念や、大切にしている価値観――が、確かに在り続けています。目の前の停滞に心を乱されすぎず、その奥にある揺るがないものを信じて、歩みを進めていくことが大切なのではないでしょうか。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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