語釈
立会はば(たちあわば)
実際に立ち合うならば。
思慮分別(しりょふんべつ)
物事をあれこれと考え、判断すること。「思慮」は思いめぐらすこと、「分別」は物事を区別し判断すること。
離れつつ
そこから離れながら。
有そ無きぞ
「ある」ということと、「ない」ということ。相手の意図や状況の有無を指す。
思ふべからず
考えてはならない。
直訳
立ち合うならば、思慮分別から離れながら、(相手について)あるとも、ないとも、考えてはならない。
現代語訳
実際に立ち合う場面では、あれこれと考えを巡らせる思慮分別から離れ、相手について「ある」とも「ない」とも、いずれにも決めつけて考えてはなりません。
解説
この歌は、立合いの場において、思考そのものが動きを妨げてしまう危うさを説いています。
立ち合う瞬間、人の心には様々な疑念が湧き上がります。相手は得物を隠し持っているのではないか、他に仲間が潜んでいるのではないか、あるいは強気に見えて実は怯えているのではないか――こうした「有るのではないか」「無いのではないか」という思案は、一つ浮かべば次々と連鎖し、気づけば目の前の相手ではなく、自らの頭の中で作り上げた疑心暗鬼と戦うことになってしまいます。「有そ無きぞと思ふべからず」とは、こうした思慮分別の暴走そのものを戒める言葉です。
これは、第三首(猿澤の池)で見た「明鏡止水」の思想と直接つながっています。心が波立てば、水面に映る月の姿が歪むように、疑念に揺れる心では、相手の実像を正しく映すことができません。「有る」も「無い」も、思慮分別が生み出す二つの極に過ぎず、この歌は、その両方からともに離れ、心を波立たせないことを説いているのです。
さらにこの歌は、後の第三十一首「心こそ敵と思ひてすり磨け 心の外に敵はあらじな」とも深く結びついています。疑心暗鬼は、相手が仕掛けてくるものではなく、自分自身の思慮分別が生み出すものです。つまり、立合いにおける本当の脅威は、目の前の相手ではなく、揺れ動く己の心そのものなのだと、この歌は静かに教えているのです。
私(塩崎関舟)の考え
立合いの場において、頭で考えている間は、すでに一拍の遅れが生じています。相手がどう来るか、どう対応すべきか――そうした思案は、平時であれば有効な準備となりますが、いざ立ち合う瞬間には、かえって足枷になってしまいます。
私は、こうした思慮分別から離れるためには、生死を離れ、身を捨てて臨むことが大切だと考えています。生き残ろう、勝とうという思いそのものが、実は「有る」「無い」という思慮分別を生み出す根本の執着だからです。この執着を手放し、身を捨てる覚悟をもって立ち合うとき、初めて思慮分別から離れた、澄んだ心で相手と向き合うことができるのだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、大切な場面ほど、あらゆる可能性を想定し、あれこれと考えを巡らせてしまいがちです。しかし、考えすぎることが、かえって本来の力を発揮する妨げになることも少なくありません。
「うまくいくかもしれない」「うまくいかないかもしれない」――そうした有無の判断そのものから距離を置き、目の前のことにただ向き合うこと。それが、迷いなく物事に取り組むための、一つの心構えなのだと思います。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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