語釈
我流(わがりゅう)
自分が身につけた、この流儀そのもの。「我流(がりゅう)」と読むと独学・自己流の意味に傾くが、五・七・五・七・七の音数から「わがりゅう」と読むのが正しく、「私自身が体現するこの流儀」という一人称の響きを持つ。
つかはば
「使う」の未然形に、仮定の助詞「ば」が付いた形。「用いるならば、実践するならば」の意。
心還(こころまた)
「還」を「また」と読ませる古語的な用法で、「又・亦」と同じ意味。「心もまた」というように、心が常にそこに伴っている様子を表す。
物云ふ(ものいう)
物を言うこと。日常のちょっとした会話や、何気ない言葉のやり取りを指す。
執行(修行)(しゅぎょう)
「執行」の字を当てているが、読みも意味も「修行」と同じ。実際に行い、鍛錬すること。
直訳
我が流儀を実践するならば、常に心もそこに伴わせ、日常の会話に至るまでも、修行としなさい。
現代語訳
自分が身につけた、この流儀を実践するときは、常に心もそこに伴わせなさい。道場での稽古だけでなく、何気ない日常の会話に至るまでも、すべてを修行としなさい。
解説
この歌は、修行というものが、道場の中だけで完結するものではないことを説いています。
「我流(わがりゅう)をつかはば常に心また」
自分が身につけたこの流儀を実践する場面では、常に心を伴わせるべきだ、というのがまず前半の教えです。「我流」を「わがりゅう」と読むことで、これは漠然とした自己流という意味ではなく、自らが正式に受け継いだ、この流儀そのものへの実践を指していることが分かります。技を実践しながらも心がそこになければ、それは真の意味での実践とは言えません。
そして後半、「物云ふ迄も執行ともなせ」という一節が、この歌の眼目です。日常のちょっとした会話など、取り立てて武術とは関係のないような、何気ないやり取りでさえも、修行として捉えるべきだと説いているのです。稽古の場面だけを特別に切り出し、それ以外の時間は無関心に過ごしてしまっては、修行は道場の中だけの、限られたものになってしまいます。
この教えは、心の在り方が、稽古の場面だけでなく、日々のあらゆる振る舞いに一貫して現れるべきだ、という考え方に基づいていると言えるでしょう。言葉遣い、人との接し方、日常のふるまいなどそうしたものすべてが、修行者としての在り方を映し出す鏡になります。
私(塩崎関舟)の考え
教えは、戦うためだけのものではありません。心の修行によって、あらゆることに通じるものだと私は考えています。
道場での稽古を通じて磨いた心の在り方は、決してその場限りのものではなく、日常のあらゆる場面に現れます。何気ない出来事への向き合い方、人との会話の中での言葉の選び方、その一つひとつに、修行の成果は自ずと滲み出るものです。
だからこそ、道場での稽古と、日々の暮らしを切り離して考えるべきではありません。常に心を伴わせて過ごすこと。それこそが、この歌が説く「執行(修行)」の本当の意味なのだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、仕事や特別な取り組みの時間だけを「頑張るべき時間」として捉え、それ以外の日常はつい気を抜いてしまいがちです。
しかしこの歌は、特別な場面だけでなく、何気ない会話や日々の振る舞いの中にこそ、自分自身の在り方が表れることを教えてくれます。誰かと言葉を交わす、ちょっとしたやり取りをする――そうした瞬間の一つひとつに心を伴わせることが、結果として、自分自身を磨くことにつながっていくのではないでしょうか。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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