語釈
奥義(おうぎ)
物事の最も奥深い、核心となる教え。武術における究極の境地。
睫(まつげ)
まぶたの縁に生える毛。自分の目のすぐそばにありながら、自分自身の目では直接見ることができないもの。
如くにて
~のようであって。比喩を表す。
あまり近くて
あまりにも近い場所にあるために。
迷いこそすれ
「こそ」は強調の係助詞、「すれ」はその結びの已然形。「(かえって)迷ってしまうものだ」という強い断定を表す。
直訳
兵法の奥義は睫のようなものであって、あまりに近くにあるために、かえって迷ってしまうものである。
現代語訳
兵法の奥義とは、自分の睫のようなものです。あまりにも身近な場所にあるために、かえって見えず、人はそれを見失い、迷ってしまうのです。
解説
この歌は、奥義というものが、遠くの特別な場所にあるのではなく、実はすでに手元にありながら、その近さゆえに見失われてしまう、という逆説を説いています。
睫は、まぶたのすぐ縁にあり、常に自分と共にあります。しかし、自分自身の目では、その姿を直接見ることができません。あまりにも近すぎるがゆえに、かえって捉えることが難しいのです。奥義もまた、これと同じ性質を持っています。特別な秘伝や、遠くにある高度な技法の中にこそ真理があると考え、人はつい遠回りをしてしまいます。しかし、実際には、すでに最初から示されている、ごく身近な教えの中にこそ、奥義は宿っているのです。
この歌は、第十四首「とにかくに本を勤めよ末々はついに治るものと知るべし」と、表裏の関係にあると考えられます。14番が「まず本(根本)に励め」という行動の指針を説くのに対し、15番は「その本こそが、実は奥義そのものなのに、近すぎて見失われてしまう」という、人間の認識のつまずきそのものを描いています。基本稽古を「まだ奥義には程遠い、単なる準備段階」として軽んじてしまうのは、まさにこの歌が指摘する「近すぎて迷う」姿そのものと言えるでしょう。
私(塩崎関舟)の考え
この歌は、第十四首と同じことを、別の角度から語っているように感じます。奥義は、初めから習っているものです。それにもかかわらず、修行を重ねる中で、私たちはつい「もっと他に、特別な何かがあるのではないか」と考え、遠回りをしてしまいます。
しかし、ふと気づいたときには、すでにそれは最初に教わっていたことだった、ということが少なくありません。奥義は、遠くを探し回った先にあるのではなく、最初に示された、身近な教えの中に、初めから宿っていたのです。
だからこそ、遠くに答えを求める前に、すでに手にしている教えを、今一度見つめ直すことが大切なのだと思います。
日々の生活に活かす
私たちは、物事の答えや解決策を、つい複雑なところ、遠いところに求めてしまいがちです。しかし、本当に大切なものは、実はすでに身近なところにあり、単に見えていないだけということが少なくありません。
新しい方法や特別なやり方を探す前に、すでに自分が知っていること、すでに手元にあるものを、今一度見つめ直してみる。その中にこそ、探し求めていた答えがあるのかもしれません。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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