語釈
わけ登る(わけのぼる)
草木をかき分けながら山を登ること。転じて、困難な道のりを進んでいくことを表す。
麓(ふもと)
山のふもと。ここでは、修行を始める出発点を象徴している。
雲井(くもい)
空。雲のある高い場所、すなわち大空を指す雅語。
をこそ見れ
「こそ」は強調の係助詞、「見れ」はその結びとなる已然形。「(他ならぬ)月をこそ見るのだ」という強い断定を表す。
直訳
分け入って登る、麓の道は多くあるけれども、(どの道を辿ろうとも)同じ空にある月を見るのである。
現代語訳
山の麓から頂を目指す道は、幾筋もあります。しかし、どの道を選んで登ろうとも、見上げる先にあるのは、同じ空に浮かぶ月です。修行の道もまた、流派や教え方は様々であっても、正しい教えのままに歩み続ければ、いつか同じ真理へとたどり着くのです。
解説
この歌は、山を登る道の多様性と、頭上に見える月の普遍性という対比を通して、修行における「道」と「教え」の関係を詠んでいます。
麓には、登り口となる道が幾つも存在します。傾斜の緩やかな道もあれば、険しい道もあるでしょう。武術にも様々な流派があるように、宗教にも、茶道にも、それぞれ異なる道筋、異なる作法があります。しかし、道そのものは違っても、山の頂(物事の真理)は一つです。
ここで重要なのは、「月」の位置づけです。月は、頂上そのものではなく、どの道を歩んでいても頭上に仰ぎ見える、いわば導きとなる標です。歩む道がどれほど異なっていても、正しい教え(月)を見失わずに登り続ければ、やがて頂(真理)にたどり着くことができる。この歌は、そう教えているように思われます。
裏を返せば、これは戒めでもあります。もし、目指すべき月とは違うものを目印にしてしまえば、どれほど懸命に登ろうとも、正しい頂にはたどり着けません。教えそのものを見誤れば、修行者は知らぬ間に、本来の道から外れた道(まがい道)へと迷い込んでしまうことになるでしょう。
道の多さに惑わされることなく、また道の違いに優劣をつけることもなく、ただ自らが仰ぐ月が正しいものであるかを確かめながら、一歩ずつ登り続けること。それが、この歌の伝える教えではないでしょうか。
また、「麓」という言葉そのものにも、注目すべき点があります。麓は、山を登り始める出発点、すなわち修行を始めたばかりの段階を象徴していると考えられます。この語は、後の第二十九首「麓なる一本の花を知り顔に 奥もまだ見ぬ三芳野の春」にも再び登場します。修行を始めたばかりの頃は、まだ頂への道のりの全体像が見えず、麓に居ながらにして、目の前に現れる幾つもの道に迷いやすいものです。第八首が説く「道は多くとも月は一つ」という教えは、こうした初心の迷いに対する戒めとして、修行の入り口にいる者にこそ、まず伝えられるべき教えなのかもしれません。
この第八首と第二十九首は、「麓」という同じ舞台設定を共有しながら、対をなす役割を担っていると考えられます。八番が「月」――不変の教え、真理――を仰ぎながら、迷わず道を登り続けよという指針を示すのに対し、二十九番は「花」――道の途上でたまたま出会う、部分的な達成や魅力――に心を奪われ、それを真理そのものと錯覚してはならないという戒めを説きます。これは、能楽を大成した世阿弥が説いた「時分の花(一時の魅力)」と「まことの花(本当の到達点)」という思想とも重なる構造です。月という不変の目標と、花という移ろいやすい魅力――この二つの自然物が、それぞれ異なる角度から、修行者の歩むべき道を照らし出しているのです。
私(塩崎関舟)の考え
武術には、実に様々な流派があります。宗教にも、茶道にも、それぞれの道があります。しかし、それらが目指しているものは、根本において同じだと私は考えています。真理という頂は一つであり、道はそこへたどり着くための、いくつもの登り方に過ぎません。
大切なのは、正しい教え、すなわち月を見失わないことです。正しい教えのままに、たゆまず修行を積み重ねていけば、たとえ選んだ道が人と違っていても、いつか同じ頂にたどり着くことができます。
一方で、もし正しい教えとは異なるものを見るようになってしまえば、修行者はまがった道(蛇の道)へと進んでしまうでしょう。どれほど熱心に登り続けたとしても、見ている月そのものが誤っていれば、たどり着く先は真理ではありません。だからこそ、道の選び方以上に、何を月として仰ぐかが問われるのだと思います。
初心の頃は、稽古に慣れてくるにつれ、ついつい自分の考えを差し挟んでみたり、教えを自分なりの解釈に変えてしまったりするケースが見られます。いずれの場合も、本人に悪気があってのことではなく、多くは「これで正しい」と本人なりに信じて行っていることです。しかし、それでは良い結果にはつながりません。教えという月から、少しずつ自分の目印がずれていっていることに、本人自身はなかなか気づけないものです。こうしたときこそ、師が正しい月の方角を示し、導いてあげるべきなのだと思います。
日々の生活に活かす
仕事の進め方、学びの方法、人生の選択。私たちの前には、いつも幾つもの道が用意されています。他人の選んだ道と自分の道を比べ、優劣をつけたくなることもあるでしょう。
しかしこの歌は、道そのものの違いよりも、何を正しい指針として仰いでいるかが大切だと教えてくれます。目先の流行や、誤った情報に惑わされず、自分が信じる正しい道標を見失わずに、一歩ずつ進み続けること。それこそが、遠回りに見えても、確かな場所へとたどり着く一番の近道なのだと思います。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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