語釈
幾千度(いくちたび)
幾千回も。数えきれないほど繰り返すことを表す。
闇路(やみじ)
先の見えない暗い道。ここでは、理屈も分からぬまま手探りで続ける稽古の過程を指す。
小車(おぐるま)

牛車や、それを牽く小さな車のこと。車輪を二つ持つ乗り物として詠まれている。
乗得て(のりえて)
乗りこなせるようになって。単に乗る、という意味ではなく、扱いに習熟することを表す。
輪のあらばこそ
「輪があってこそ(初めて意味を持つ)」の意。輪という道具の存在価値は、乗りこなせて初めて実感されるという逆説を示す。
直訳
幾千度も、先の見えない暗い道をたどるように車を進める。その車に乗ることができるようになって初めて、輪というものの意味が分かる。
現代語訳
幾千たびも、先の見えぬ暗い道を巡り続ける牛車のように——理屈も分からぬまま、ただがむしゃらに稽古を重ねる時期がある。しかしその車に乗りこなせるようになって初めて、「輪」というものの本当の意味がわかる。
解説
この歌は、牛車という具体的な意匠を借りて、稽古における「理解」と「反復」の関係を説いています。
牛車には二つの車輪があります。一つは「理(教え・理合)」、もう一つは「数(反復稽古)」になぞらえられるでしょう。どちらか一方だけでは、車は前に進みません。理屈だけを頭で理解しても実技は伴わず、ただ数をこなすだけでも、稽古の本当の意味を見失ってしまいます。両輪が揃って初めて、車は「闇路」(先の見えぬ、理解の及ばぬ道)をも進むことができるのです。
しかし、この歌の眼目はさらにその先にあります。
「乗得てみれば輪のあらばこそ」は、乗りこなせるようになって初めて、輪の存在そのものが意味を持つ、という下の句です。
稽古を始めたばかりの頃は、なぜこの動きをするのか、なぜこの型を繰り返すのか、その意味がまったく分からないまま、ただ教えの通りに体を動かすしかありません。まさに「闇路をたどる」状態です。理屈が先に分かってから稽古をするのではなく、分からぬまま幾千度も繰り返す反復稽古そのものが、後になって初めて「ああ、こういうことだったのか」という理解を連れてくる。理解が反復を導くのではなく、反復が理解を可能にする。
この歌はその順序を、車の両輪という身近な意匠で示しています。
ただし、下の句「輪のあらばこそ」には、注意すべき古語の用法があります。「あらばこそ」は古文において、「もしあるならば(…であろうけれど、実際はそうでない)」という反語的な打消しを表す言い回しとして用いられることがあります。この読みに従うならば、この一句は「輪があってこそ、初めてその意味がわかる」という単純な肯定ではなく、「乗りこなせるようになれば、もはや”輪がある”ということさえ意識に上らない」という、より深い境地を示していることになります。
これは、荘子・外物篇に「筌は魚を得るための道具であり、魚を得れば筌は忘れられる」とあるように、教え・道具は目的を達した瞬間、意識から消え去るべきものとされます。幾千度の反復稽古の果てに至るのは、「輪という道具を意識しながら乗りこなす」段階ではなく、「輪の存在すら意識せず、ただ乗っている」境地なのです。
私(塩崎関舟)の考え
修行というのは、暗闇の中、一点の光を目指して走るようなものです。
そこには、教えのままに、数を稽古し理を求める両輪が必要です。
すぐに答えを求めるのではなく、暗闇からいつ抜け出せるかわからないけれども教えのままに稽古をすることで、いつか、次の段階へ上がることができます。
できない自分に苛立ったり、師にあたったり、答えを求めるのは、愚行でしかありません。
暗闇で自分では見えなかったとしても、教えを信じてやるしかありません。
日々の生活に活かす
仕事でも勉強でも、新しいことを始めたばかりの頃は、なぜこのやり方が必要なのか、なぜこの手順を踏むのか、意味が分からないまま進めなければならない時期があります。
すぐに理屈や答えを求め、納得できなければ動かないという姿勢では、いつまでも一歩を踏み出せません。
分からないまま、まず教えられた通りに数をこなしてみる。
振り返ったとき初めて、「あの反復には、こういう意味があったのか」と気づく。そうした遠回りに見える道のりこそが、実は最も確かな近道であることも少なくありません。
暗闇の中を進む不安に苛立つのではなく、輪が二つ揃うのを信じて、まずは歩みを止めずに進んでいく。それが、この歌が現代の私たちに残す教えだと思います。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
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