語釈
猿澤の池

奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺の五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「南都八景」のひとつとして知られている。
直訳
月は「池に映ろう」と思っているわけではなく、池の水も「月を映そう」と思っているわけではない。それでも猿沢の池には、自然に月が映っている。
現代語訳
月は「水に映ろう」と思っているわけではなく、水もまた「月を映そう」と思っているわけではありません。それでも、澄み切った池には自然と月が映ります。
修行においても、自分から何かをしようと作為を起こすのではなく、澄み切った心で相手と向き合うことで、その場に応じた自然な働きが生まれることを、この歌は教えています。
解説
この歌は、まさに「明鏡止水」の境地を詠んだ歌とも読むことができます。
月は「映ろう」と思わず、水も「映そう」と思いません。それにもかかわらず、水面が澄み切っていれば、月は自然にその姿を映します。
修行においても、「こう斬ろう」「こう受けよう」といった作為や執着があれば、心は波立ち、相手を正しく映すことができません。
心が静まり澄み切れば、月が自然に映るように、相手の動きも自然に心へ映り、その瞬間に応じることができます。
私(塩崎関舟)の考え
稽古をしていると、「こう動こう」と意識し過ぎた瞬間に、相手の動きに応じられなくなることがあります。
一方で、心が静まり、余計な作為がなくなると、不思議なほど相手の動きがよく見え、その場に応じた動きが自然と生まれてきます。
このような境地に至るには、一朝一夕になれるものではありませんが、繰り返し稽古を重ね、時間をかけて体得していくものだと思います。
私はこの歌を読むたびに、「相手を見る」というより、「自分の心を澄ませること」が大切なのだと感じます。
相手は己であり、映ったものもまた己です。心がざわついていれば、相手の動きを正しく見ることはできません。
正しく動けないときは、自分の心の乱れなのかもしれません。
このように考えていくと、水面に映る月は、単に「教え」が心に映ることを表しているだけではなく、映った姿を通して、自分の心の状態を知るための鏡でもあるように感じます。
武術では、相手と向き合っているようで、実は相手を通して自分自身の心と向き合っています。
私は、このことが「自鏡流」という流派名にも通じているのではないかと考えています。
もちろん、現時点では史料による裏付けはありませんので一つの仮説に過ぎません。しかし、「自らを鏡として省みる」という意味が込められているとすれば、百足伝全体を貫く「心を修める兵法」という思想とも、美しくつながるように感じています。
日々の生活に活かす
私たちは日常生活の中で、「うまく話そう」「良く見られたい」「失敗したくない」と考え過ぎることで、かえって本来の力を発揮できなくなることがあります。
会話でも仕事でも、相手を思い通りに動かそうとするほど、心は緊張し、視野は狭くなります。
一方で、余計な作為や執着を手放し、相手の話に素直に耳を傾けると、不思議と相手の気持ちや状況がよく見え、その場にふさわしい言葉や行動が自然と生まれてきます。
この歌は、武術だけでなく、人と向き合う姿勢にも通じる教えです。
まず自分の心を静めること。
すると、澄んだ水面に月が映るように、目の前の出来事をありのままに受け止めることができるようになるのではないでしょうか。
相手を変えようとする前に、まず自分の心を澄ませる。
それが、百足伝が私たちに伝えようとしている大切な教えの一つなのかもしれません。
百足伝 全釈について
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『百足伝全釈 ― 無外流の教えを現代に読む ―』は、無外流居合の源流である自鏡流の流祖、多賀自鏡軒盛政がまとめた『百足伝』四十首を、一首ずつ現代語訳・解説し、塩崎関舟の考えを交えながら読み解くシリーズです。
修行者の心構えはもちろん、現代を生きる私たちの日々の生活にも活かせる普遍の教えをお届けします。
ご注意
『百足伝』には、現在広く定着した現代語訳や解釈が存在するわけではありません。
本ページに掲載している直訳・現代語訳・解説は、古文書や関連資料、無外流の伝承、そして長年の稽古を踏まえ、塩崎関舟が現時点での研究成果としてまとめたものです。
解釈にあたっては、古文書や古典の専門家のご意見も伺いながら検証を進めておりますが、新たな史料や知見、また伝承との照合によって、今後内容を加筆・修正する場合があります。
お気づきの点や異なるご見解、ご助言などがございましたら、ぜひメールにてお寄せください。
皆さまからいただいたご意見も大切な研究資料として参考にさせていただき、より正確で価値ある『百足伝 全釈』となるよう、これからも研究を重ねてまいります。























