森下権平

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土佐の継承者 森下権平

土佐での修行(心影流)

18歳のとき、土佐において小林市郎左衛門の弟子となり心陰流を学んだ。
寛永6年市郎左衛門が没し、門弟の山本助之丞が師役となったため、権平は助之丞に就いて修行
に励んだ。権之助24歳であった。
すぐに助之丞に認められ、あるとき権平を呼び免許を許したが、権平は他流も学び生涯修行を
続ける考えで居たため免許を辞退した。

江戸での修行(無外流)

江戸に出て辻月丹の門下となり研鑽を積むこと11年。能く無外流剣法の奥義を極めて免許を得
た。

土佐へ帰国

まず、権平の弟子となったのは、家老福岡宮内を初めその家臣であった。
福岡宮内は江戸詰めのころ、家臣を辻月丹の門に入れていたので権平の技はよく知っていた。
元文元年正月18日、時の太守豊敷公に召出されて、剣術指南役となり三人扶持切符八石、格式御留守居組になったのは、恐らく家老福岡宮内の推挙によるものであろう。

権平は、「此流にては必勝と云うことはいはぬ事なり。仁者無敵の地位てなうては必勝はないぞ。」と常に口にしていた。
また、“勝負”について森下権平とある人のやり取りについて、ある人が「技の同位なる上手、立合いたる時は勝負何れにかあらん」と問うと、権平は「いづれにても動く方に負けあり。
譬へば両方の指もて物を張合い居るが如し。動き出る方より落ちるものなり。」と答えた。
また、森下権平の剣道の機を説く常用語は「已發未發」であったそうで、稽古を通して心を鍛えていたことが各エピソードから分かる。

権平は、妻帯しなかったため、同姓の御坊主鎌田宗覚の忰鐵右衛門を養い、これを仕込んで無外流皆伝を授け、明和3年3月3日を以って官に請い鐵右衛門に家藝を代勤させた。

老齢のため、その後まもなく病蓐に臥す身となり、明和4年12月4日を以って永眠した。
臨終に際し、近くの者に「起こせ」と言うので、背後の衣着や布団などを重ねて起こすと、権平は足を寄せかけたが、何分にも老体のうえに大病の披露もあって端坐すること能はず、その気持ちだけで辰の刻に往生した。
最後まで、自己を試練せんとする修行心の旺盛さが、この老剣士の臨終にまで現れている。

その後も、森下家は代々剣術師匠役として維新まで続き、土佐上下に普及した。

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